李朝 (蜀)

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李 朝(り ちょう、生年不詳 - 222年)は、後漢末期から三国時代蜀漢政治家偉南益州広漢郡郪県の人。弟に李邵。子は李旦、孫は西晋に仕えて武功を挙げた李毅、曾孫に李釗李秀がいる。

概要[編集]

郡の功曹となって孝廉に推挙され、臨邛県の令となって成都に戻り別駕従事中国語版となった。

建安24年(219年)、群臣が献帝に上表し、劉備漢中王に推挙したが、その際の文章は李朝が書いたものだった(華陽国志)。

章武2年(222年)、劉備に付き随って夷陵の戦いに参加したが、敗戦後永安にて死去した。

陳寿の書いた『益部耆旧雑記』によると、李朝と弟の李邵と若死にした別の弟はそれぞれ才能と名声があり、当時の蜀漢の人々によって李氏の三龍と呼ばれていた。蜀の名臣を讃える楊戯の『季漢輔臣賛』では、李朝を篤厚不動であり、心ばえよく、蜀の誉れとなる人と評価している。また華陽国志・先賢志では広漢郡の優秀な人材として、弟の李邵・王士王甫らと並べ取り上げられている。

子の李旦は字を欽宗と言い、光禄郎中主事を務めた。

参考文献[編集]